未来との対話: 小さな気づきを大切に

筑波大学 「千年持続学の確立」プロジェクト 


未来との対話: 小さな気づきを大切に


遠藤隆也

1. じじとばばは本当にうれしかった: いのちのつながり


「じじとばばは、わかちゃんとひろちゃんとちかちゃんとゆかちゃんが生まれてきてくれて、本当にうれしかった。」

「私たちの成長を身近で一緒に味わえたからとか、家族やいろんな人とのつながりの中にいられたからうれしい、との話はよく聞いたけど、本当にってどういうことかなー?」

「んーん、うまくは言い表せないけど、『いのちのつながり』を感じたからかなー」

「へー、いろんな『つながり』があるんだね? ところで、じじはどんなお仕事をしてきたの?」


2. ディジタルネットワーク: 小さな信号のつながり


「じじがねー、最初にやったことはとても小さなことだったんだけど、パルス信号をどうやって遠くまで速く伝送することができるかなー、ということに熱中していたんだ。」

「信号パルス? 今のディジタル信号ってやつのこと?」

「そうそう、1と0からなるパルス信号を遠くまで送ろうとすると信号の波形が崩れてくるので、それをある距離まで伝送すると、そこで崩れかけた信号波形から1か0かを識別してパルスを再生して、また送っていくことを、何度も何度も繰り返してパルスの形式を持続させていくんだ。」

「へー、なんだか簡単そうでいて、小さな仕事のようにも見えるけど、何か『つながり』がありそうな気もするよね。」

「そうなんだよ。小さなことのようだけど、その小さなディジタル信号のパルス波形の『つながり』が組み合わさったものに意味を与えていくと、信号が符号となり、その符号のやりとりの仕方の約束事を決めていくというように、次々と『つながり』を持続させていくと、新たな世界が開けてくるんだよ。」

「へー、一つ一つは小さな小さな気づきのような気がするけどね。それで、どうなったの?」

「ちょうど、ふたりのお母さんやお父さんが小さかった頃に、これらのディジタル符号を、日本中でやりとりすることのできるディジタル・ネットワークにつながっていったんだそれが、日本におけるディジタル情報化時代の幕開けになったんだよ。」

「へー。今の光ファイバーや無線を使ったインターネットと違うの?」

「いやいや、当時としては最速で最新の考えだったんだが、スピードも今のに比べたら遅いし、約束事も固いものだったよ。

でも、このような基本的な土台があって、その上に、またまた小さな気づきを積み重ねていくという地道な技術の持続的な研究開発があって、今のようなネットワークとしてつながっていったんだよ。

差異というのは地道なことの持続の中から生まれてくるんだよ。」

「ふーん。でも今までの話は、ちょっと堅い話しばっかりで、なんかつまらないな。

そのネットワークでどんなサービスができるの? 人や社会の話しもでてこないの?」


3.サービス: 人と人、言葉・概念のつながり


「ごめんごめん、硬い話しになってしまって。

その頃は、遠くにいる人とすぐに連絡をとろうとするときの手段は、主に電話しかなかったんだ。

そこで、電話の次、すなわちポスト電話としてどんなものがあるといいかなーということが話題になって、そこで登場してきたのがファクシミリだったんだ。

紙に書かれた文字や絵を、小さく小さく見ていくと、白と黒のインクの染みの集まりのように見えるよね。

それをファクシミリという装置で、1と0のディジタル信号にして、符号化していくと、前に話したディジタル・ネットワークでやりとりができるって訳だよ。」

「ふーん、でもファクシミリを装置って言うなんて、おかしいよ。こんなに小さいのに。」

「そうか、でも当時は机ぐらいの大きさがあって、大きな事務所に1台置かれているようなものだったんだよ。

それを各家庭に電話器のように入れていこうということで、大々的な研究開発が行われて、段々と小さくなっていったんだ。

最初の小型のものはミニファックスと呼ばれたりしたこともあるんだよ。

コンピュータの世界も当初は電子計算機と呼ばれて、大きな部屋に置かれていたもので、最初にパーソナルコンピュータということを言った人は、エー、こんなものを個人一人(パーソナル)が使うなんて、おかしいよと言われたりしたんだよ。」

「フーン、名前とか言葉とか、決まりきって変わらないものじゃなかったんだー。」

「名前や言葉っていうものは、状況によって、いろいろ意味合いが変わってくるものなんだ。

それにみる視点や捉え方によっても世界は変わって見えてくるもののようだね。

ところで、このミニファックスを使って、世界で最初に、家庭で使ってみた子供は誰だと思う?」

「エーット? 誰かなー? アメリカの子かなー?」

「実は、ひろちゃんのお父さんとわかちゃんとちかちゃんとゆかちゃんのお母さんなんだよ。」

「エー! ホント!」

「かわいい絵を描いて、じじのお父さんとお母さん、すなわち四人のひいじいちゃんとひいばあちゃんに、ばばと一緒に操作しながら、かわいい絵を送ったんだよ。

今でもその時の記録ビデオが武蔵野にあるNTTの歴史資料館に残っているよ。」

「へー、ファクシミリで家族をつなげたんだ。」

「それに、またまた小さい気づきだけど、見方を変えて見てみると、このファクシミリで送る文書(ドキュメント)は、文字や絵や、それに題名や本文などからできている構造物のようにも見えてくるんだよ。

じじが国際的な標準化活動に参加している頃に、建築(アーキテクチャ)と同じように、ドキュメントにもアーキテクチャがあるとの概念(コンセプト)が、その当時に出てきたんだ。」

「へー、文書と建築がつながっているなんて、不思議だね。

でも、そんな頭の中だけで考えられるような概念レベルのものが、世の中に具体的に役立つことなんてあるのかな?」

「ただ頭の中で考えられるだけと思われる概念も、状況によっては人や世の中を動かす原動力になることもあるんだよ。

その時も、じじはこの概念を、新しい特許庁の電子化システムの概案書として提案し、それが採用されて、現在の特許庁の電子化システムの基本になっているんだよ。」

「へー、頭の中と外の世界が、そんなことでつながっていくんだね。

ところで、ミニファックスを一緒に操作してくれた、ばばはその頃どんなお仕事をしていたの?」


4. 訪問看護: 家族そして地域とのつながり


「ばばは、人の看護や医療の歴史的転換期の真っ只中を歩んできたんだよ。

ひろちゃんのお父さんとわかちゃんとちかちゃんとゆかちゃんのお母さんが小学校に行き始めた頃に、家庭への訪問看護の仕事を1980年に横須賀で始めたパイオニアのひとりでもあるんだよ。

当時は、病気になって患者と呼ばれるようになると、病院に行き、家族から切り離されて過ごすことが普通だったんだ。

それを、ばば達は患者さんが家庭に居て、家族と一緒に安心して安らかにすごせるように、日夜苦労してきたんだ。

今では、介護保険とか何とかで当たり前の時代になってきたけどね。

町のお医者さん達と、介護施設や病院、それに行政や福祉などの関係者の方々をつなぐ、最初のケアマネージャーの仕事もしてきたんだよ。」

「へー、そうか、ばばのやさしさと頑張りはそんなところでも発揮されていたんだね。

それは家族や地域とつなぐことでもあったなかなー?」

「もちろんそうなんだけど、それはある意味では表層的な見方かもしれないよ。

ばばはね、患者さんの中に失語症の方がおられると、『失語症友の会』の活動をはじめて、家族や地域とつなぐと共に、言葉を失った患者さんのこころと記憶をつなぐことにも苦労していたんだ。

それはね、言葉を失って生きていくってどういうことかなー、そのときのこころの中はどういう風に感じてるのかなー、などという気づきにもつながっていったんだよ。」

「ふーん、病気や医療というと、主に身体的なことばかり考えてしまうけど、こころのことや生きるってことにつながっていくんだね。

でも、普通に生活できるって、すばらしいことなんだね。」

「ばばは、毎日家庭訪問をして患者さんの介護や家族の方々の悩みの相談にのったりしながら、この活動の経験、実際の現場からの小さな気づきの声を多くの方々に伝えることもしていったんだ。

普通に生きるって当たり前のようなことだけど、とても大事なことなんだ。

わかちゃんもひろちゃんもちかちゃんもゆかちゃんも時々、当たり前と思われていることを考えてみるといいかもね。」

「当たり前かー、言われてみると難しいようだなー」

「ばば達は、車椅子の失語症の方々と一緒にイギリスやスイスの山々をバリアフリーの旅をしたこともあるんだよ。

の時には、わかちゃんとちかちゃんとゆかちゃんのおかあさんも一緒にお手伝いで旅行したこともあるんだよ。

日本で初めての、すばらしい旅で、『旅は最高の治療・いやし』とも言われたんだよ。」

「治療やいやしにつながったんだね。」

「そうなんだよ。

それに、ばばは、夜中に電話があって真夜中に看取りに出かけていくことも、何度もあってね。

家族の中のひとりの患者を看取るということは、そのときまでの患者のこころのケアと共に、家族のこころの準備のケアでもあり、その後のこころの整理・社会的ケアにもつながっていくんだよ。

ばばは、この看取りの体験の中から、死の臨床・ターミナルケアや生と死を考える会の活動などに参加し、それを仲間の訪問看護師やこれから看取りにむかわれる方々とわかちあうことを続けてきたんだ。」

「そうか、治療や癒し、それは家族や社会的ケアにつながり、生きることにまわりまわってつながっていくんだね。」

「ターミナルケアや生と死を考える会の話しなど、じじの話よりずーと深い話しがいっぱいあるので、今日とは別の機会に話してもらおうね。」

「ふーん、そうなんだ。ところで、じじは硬い技術ばかりで、ばばのような人にかかわる仕事はしていなかったの?」


5. ヒューマンインタフェース: 人と技術のつながり


 「じじも、ディジタルネットワークやマルチメディアサービスの仕事をする中で、じじが方式設計していることが、結果的に社会の皆の生活に影響を及ぼしているということに気がつき始めたんだ。

技術を使うのは人なのだから、それを使っている人との関係・つながりを研究していくことが大切ではないのかなーと。

そこで、1987年に人と情報通信技術のインタフェースについて研究する『ヒューマンインタフェース研究所』という研究所を立ち上げることになったんだ。

その企画・設立・運営に参画できたことが、また次の人(H)と情報(I)と技術(T)をつなぐ『HITセンター』、それに社会(S)の視点を強調した『HITsラボラトリー』、そしてメディカルな視点を含めて学際的に総合的に研究する『M-SAKUネットワークス』への展開・深化へつながっていったんだ。」

「ふーん、よくインター何々という言葉があるけど、それにもつながっていくの?」

「当時、認知科学、脳科学、人工生命、バイオなどの学問が盛んになりつつある時代でもあったんだ。

そのような学問も参考にしながら、人と情報と技術のインターについていろいろと研究したり、研究開発のエンビジョニングや戦略検討をしていたんだ。

それは、今までのひとつの学問分野の枠組みの中だけではとらえきれない気付きと地平に遭遇し、戸惑いと共にわくわくとした気持ちを抑えきれなくなることがしばしばあったよ。」

「へー、わくわくするっていいよなー。

今では、何だか情報化が進みすぎたようで、わくわくするようなことが少なくなって、つまらないような気がするなー。」

「そんなことはないような気がするよ。

当時も、同じようなことを言う人がいたけど、素朴な疑問を大切にしつつ、こころのより深いところから見つめていくと、新たな小さな気づきにつながっていき、わくわくしてくるんだよ。

それは今も変わらないと思うよ。当時も、当たり前と思われていた、インタフェースやコミュニケーションにおけるわかりあえるってどういうことかなー、インタフェースが良いとか悪いとかいうけど、それはどういうことなのかなー、というような素朴な疑問をいろいろと考えてみたんだ。

そのために、認知科学会で検討したり、電子情報通信学会というところに『ヒューマンコミュニケーション研究のグループ』を創設することにもつながったんだよ。

その人にとっての良いインタフェースというのは、その人なりの外界の捉え方、認知のスタイルによっても異なっているようにも見受けられるし、社会的な風習や歴史的経緯も含めてトータルに捉えていく必要がある、技術開発やビジネス優先の世界の中で、個人と技術と組織・社会が調和ある発展をしていけるようにするにはどのようにしていけばよいのだろうか。

など、わくわくするような疑問がでてきたんだ。」

「あっそうか、わくわくするってことも、当たり前でつまらないと見ることも、それらは、自分のこころの仕組みから出てくるもので、自分の深層にあるものとつながっているんだね。

ところで、どうして自分個人のことへの小さな気づきから、社会などにつながっていったの?」


6.電子社会システム: 技術と社会のつながり


「1980年代の終わりころに,マルチメディアという言葉が流行始め、じじも初めて『マルチメディア研究』などという研究部をつくったりしていたんだ。

その少し前から『諸個人と技術と社会の調和ある発展』とはどういうことだろうか,という小さな思いが湧きあがってきていた。

それは情報通信の新しいサービスやヒューマンインタフェース方式を設計するときの基底でもあったんだよ。」

「時代の流れと共に、いろんな言葉が流行るんだね。」

「そうなんだ、1990年代の初めに、ドレスデンでOECD関連の会議が開かれ、そこで講演したときに、Sustainable(持続する)という言葉にも出逢ったんだ。

今では普通に使われている様々な言葉,例えばマウス,電子メール,パソコンなどからフラクタル,人工生命,心の社会などの言葉を生み出したオリジンの方々(たとえば,ダグラス・エンゲルバート,アラン・ケイ,ベルバー・マンデルブロ,クリストファー・ラントン,マービン・ミンスキーなど)に直接ふれあう機会を得、ワクワクする気持ちを抑えきれなかったことがつい昨日のような気がするよ。

これらの各個人のオリジンの小さな気づき・思いから始まった諸活動が,より身近な技術・認知的人工物となり,企業活動に変化を与え、それが経済、政治、社会に様々な影響を与えると共に、その社会を環境として、再び人の思い、考え方、意識、生活などに影響を及ぼしていくという諸相に、気づいてきたんだ。」

「エー、ひとつひとつの、そんなに小さな言葉が、社会に影響を及ぼしてくるの?」

「そうなんだよ。

一つ一つの小さな技術の波も重なってくると大きな潮流となって世の中を動かし始める。

ところが、一つ一つの技術や『認知的人工物』は小さくて魅力的なものでも、それらが関係付けられシステムとして津波のごとく押し寄せて、しかも様々な思いで使われ始めると、様々な社会的課題を生じさせることになってくる。

そして、この諸課題に対処するために、人々は組織や政策や制度・法律などの『社会的人工物』をいろいろとつくりはじめる。

この社会的人工物は、既存の伝統の制約下にある社会的人工物のシステムの中にフラグメントのようにしてつくられて埋め込まれようとするが、きれいな調和のとれたパッチワークのようにはめ込んだり、新たに追加したり取り替えたりすることは難しいことが多い。

これらの動きのなかで人々の考え方・意識も少しづつ変化してくる。

技術や認知的人工物の変化と社会的人工物の変化は、本質的に時定数が大きく異なっている。

これらのことも問題を複雑にしているんだよ。」

「ちょっと待ってよ! そんなことをどんなきっかけで気づくようになってきたの?」

「ごめんごめん、ちょっと話しが早すぎたかな。

ヒューマン・インタフェースに係る現場の課題への対応に追われている日々の生活の中に、少し広い視点から、様々な外部の研究プロジェクト活動に参画する機会が現れてきたんだ。」

「それも、小さな気づきを積み重ねていくという活動を持ち続けてきたからなの?」

「そうなんだよ。

一介の技術者だったじじが、小さな気づきを持ち続けるうちに、ヒューマンインタフェース研究に出逢い、そこで『オリジンにふれよう』という活動を進め、それが技術と社会への気づきにつながっていったんだ。

じじは、法律、政治、経済、哲学・倫理そして工学などの専門家からなる、5年にわたる日本学術振興会の未来開拓学術研究推進事業:「電子社会システム」研究プロジェクトの学際的研究の運営委員をつとめる機会が与えられたんだ。

60数名の研究者はほとんど大学の先生方で、そして、「電子社会のパラダイム」という本の一部を書くことにつながったんだ。

30数年にわたる情報通信の研究開発活動の体験を踏まえて、過去の技術開発が現在の経済、政治、法律、倫理などに影響を及ぼし、現在進行中の研究開発活動が未来の社会に影響を及ぼすこと、個人と社会や倫理の関係、人々には総合知が求められていることなど、その当時気づいたことを目に見えるような形にとりまとめて世に問うことを試みたんだ。」

「そうかー、当時からみた未来の社会も、何だか文明が進んでいるようでいて、不安な感じがあったんだね。

でも今となってもあまり状況は変わりないなー。

ところで、見えるような形にとりまとめるって、何につながっていくの?」

「そうだねー、言葉についてもオリジンにふれてみるとおもしろいよ。

『文明』という言葉も元は『易経』や『尚書』など儒教の古典にある言葉で,『天下文明なり』、『濬哲(しゅんてつ)文明なり』というように使われていたんだ。

それは社会秩序の安定や個人の徳を褒め称える言葉であって,物質文化の優秀性を示すシビライゼーションとは異なっていたんだよ。

また,理論(theory)という言葉と劇場(theater)という言葉は、ギリシャ語(thea’英語のsight)を語源としていて、言語の意味体系の内側で、みえるように説明するのが理論の役割ということになるといわれているんだ。

じじは、電子社会の課題を皆で分かち合うことができることにつながっていくように、見えるような形にしようと試みたんだ。」

「ふーん、そうか。こんなにいろんなことを考えてくると、それらのことを考えている基本になっている人間、いや自分って一体どんな仕組みになっているんだろうね?」


7. 自分自身を知る: 自分のつながり


「そうなんだ。

いろんな体験と小さな気づきを重ねている内に、そのように気づきをしている自分は、どうなっているのかな、ということがいつも気になっていたんだ。」

「でも、自分がどうなっているって、どんなきっかけで、どんな方法で見つけていくの?」

「これこそ、小さな気づきであって、自分にはショックなことでもあるんだ。

じじは36歳になろうとしていたある日、道を歩いていて突然気づいたんだ。

家も建てて子供も二人、多くの知識もあって仕事も順調。

ところが自分の中には何もないということに。

自分の中にあると思っていたものは、外の世界と社会の慣習の中でインタラクションしている中から、日々自分の中に構築されたものにすぎず、それもパターン化してきている。

自分という言葉が表しているように、『自』ではなく『分』に占有されている自分に。」

「エー! 自分がないなんて考えられないけど、どんな風にして感じたの?」

「それから、自分が外界とインタラクションしているときの身体の今・ここの感覚を意識して感じてみたり、自分の行動・ふるまいや思考の仕方を観察してみたり、総合的な自己を想起してみたりするという試みを続けたんだ。」

「どうも難しそうだけど、小さな気づきの基本的なことのようなものかなー?」

「そのうちに、当たり前のことかも知れないけど、自分は、大雑把には、Affectionate (A) とBehavioral (B) とCognitive (C) な側面を併せ持つ、いわば『A-B-C システム』としてとらえることができるようだ。

そして、自分と外界とは、これらA、B、Cがインタラクションをすると共に、これらのA、B、C 間でもダイナミックなインタラクション行われていて、これが、健康な状態、平均的な状態、不健康な状態でそれぞれインタラクションが異なっている自分が感じられたんだ。

しかも、そのインタラクションの仕方が、何か偏ったパターンのようなものに拘っている自分に気がついたんだ。

そして、他の人をそのように見てみると、ある程度は性格のタイプなどによってグループ化してとらえることが可能な側面もあるように思われたんだ。

当たり前のことかもしれないけど、そのようなダイナミックな動きが自分の中で起こっていることを見てしまったという感覚も生まれてきたんだね。」

「それはある意味で自分探しにもつながったわけなの?

悩んだり、不安になったりすることとも関係するの?」

「そーなんだ。

その自分探しという言葉は、当時のじじ達の仲間の活動から生まれた言葉でもあるんだよ。

そして、外界から見離されたり、無視されたり、拒絶されたり、と心で感じたり、頭で思ったり、身体で体感したりした時に、不安になったり、怖れたり、怒り出したりすることも、観察されるようになったんだ。

特に、不健康な状態においては、例えば、不安⇒怖れ⇒怒り⇒不安----のようなダイナミックなサイクルをとることにも気づかされたんだ。」

「そのような動きは、何も個人の内面でなくても、組織や国などの集団においても、同様のものがあるような感じもするけど、どうかなー?」

「そうなんだよ、社会のことを知ろうとするなら、まず汝自身を知れという言葉があるよね。

集団の動きもこのようなサイクルをとるのなら、それを和らげる方策も考えられることにも気づかされるんだ。

このサイクルに陥らない、持続ある社会にしていく方策を探していくときの知恵をも与えてくれるんだよ。」

「よく分らないけど、そんな感じもするね。

人の内面の動きを調和させつつ社会とつなげていく感じなのかなー?」


8. エコな生活: 自然とのつながり


「ところで、わかちゃんが生まれたときに、じじとばばは、会社も都会の生活もパッとやめて、田舎に引っ越してきたよね。

そのことって、どーだったの?」

「都会の生活から、少しだけ便利さと欲求を抑えた生活をはじめてみると、今まで気づかなかった家族やこころのつながりの豊かさと、自然のめぐみにめぐりあえたんだ。」

「自然のめぐみってなーに?」

「そうだねー。ある日、ふっと夕食を見回してみたら、並んでいるものが、ばば達が自宅の畑で育てた野菜と、近くの有機

農家の玄米などで、全て町内のものだったんだよ。

しかも、全てばばの手作り。あの時は、なんとも言えない感動だったなー、身近で自然から頂いたものに生かされている自分を感じたんだ。」

「電気もそうなんだって。」

「そうそう、屋根全体を太陽光発電にして、からまつの家を魔法瓶のようにして、家の必要な電気をほとんどこれでまかなうことができたんだ。

日照時間が日本一で、真南で30度の屋根、子供達の知恵を借用してできたお陰だね。」

「自然とのつながり、知恵のつながりってものかなー?」

「じじとばば達の時代は、自然を破壊して次々と開発を進め、石油などのエネルギーを浪費し、環境が問題になってきたときなんだ。

少しでも、そのような状況に考慮した生活をする人が、というよりも、まずは自分達自身がはじめるべきだと気がついたんだ。

小さな気づきを実行することで、自然に生かされ、自然と一体となった感覚を実感することが得られて、心の奥底から、本当にうれしかったよ。」

「それに、その頃は、情報通信の技術が、急速に進んだ頃のようだったけど。」

「そうなんだ、前に話したディジタル・ネットワークやサービスが、情報通信にかかわる持続的な研究開発によって、その頃には、ブロードバンド・ユビキタスと言う言葉であらわせるような時代になろうとしていたんだ。

じじとばばは、そのような情報通信環境を最大限に利活用して、田舎でわかちゃん達と一緒にいながら、情報通信技術の戦略策定などの仕事をインターネットを使ってやりながら、東京には週に1回通うという生活をしていたんだよ。

その頃、人(H)や情報(I)を総合的に捉えてデザインしていく、HIグラウンド・デザイナーが必要になってくると思って始めたんだ。

そして、ひろちゃんとは、毎日家族のブログで、その日の日記を見ながら、ネット上で一緒に成長を楽しんで、そして時々横浜に通って体験を共有していたんだよ。」

「へー、そんな生活を、その頃からしている人がいたんだ。」

「その当時、じじは、ユビキタス社会の研究というプロジェクトの運営委員をしていたこともあったんだ。

その研究プロジェクトの成果のひとつに、将来の生活を物語り風に語った『スローなユビキタス・ライフ』というのがあったんだよ。

ある意味で、スローなユビキタス・ライフというような生活を、実際におくっていたんだよ。

そして、毎日裏山のからまつ林のこもれびの中を散歩していると、『いま、ここに、いる』という感覚があふれてくるんだよ。」

「その散歩道って、じじが佐久穂の『哲学の道』って呼んでた散歩道のことだね。

技術のつながりを、家族・こころのつながり、自然とのつながり、そして今ここへのつながりにつなげていったんだね。

理想的な生活とは、理想的な物語---すべての行為が、無駄なく緊密に結びついている物語---と一致する生活である、ということに結びついていったようにもみえるね。 

でも、一方では、今でも環境問題はますます深刻になる一方だし、こころのつながりは難しい時代なんだ。

小さな気づきを、皆が実行すればいいのにねー。

そのような心をもつ人が増えるように変わっていくにはどうすれば、いいのかなー?」


9.関係のなかのいのち: 種子のつながり・持続ある社会


「人々のこころが変わっていくには、何世代も何世代もかかるんだよ。

小さな気づきの種を育てるようとする力を持ち続けていくこと、持続が必要なんだ。

でも難しく、深刻に考えなくてもいいよ。

わかちゃんとひろちゃんとちかちゃんとゆかちゃんも、それぞれが歩みながら、日常の生活の中で小さな気づきを大切にするというこころを持ち続けて、そのこころをまたまたみんなの孫達に伝えていってくれるということを続けていってくれるだけでいいのじゃないかな。

そうしてくれれば、じじとばばは、またまた本当にうれしいよ。」

「本当!何だか小さなことだけど、そんなこころを持ち続けていこうという種子を受け継いだような感じがするね。」

「でもね、言葉によるものの見方ということを本当だと思うようになると、その枠組みに無意識的に従って、そのように見てしまうというこころの働きがあるので少し気をつけようね。

今日は言葉を使って小さな気づきのお話しをしたけど、話された言葉をこころの奥底に種子として蓄えても、それに執着するのではなく、自分達の日々の体験の中から、言葉で語ることのできない小さな気づきを、自分なりに再構築していってね。

それは本当に本当にうれしい、様々な関係のなかにあるいのちを感じる、自分との出逢いでもあるんだよ。

多くの人が、関係のなかにある自分のいのちを実感するようになることが、持続ある社会の基底につながるような感じがするね。」


「本当に本当にうれしい!」

➡ その2へ続く